マイ・スト-リ-

「母の祈り」

私たちの4人家族が日本にきたのは1952年の2月でした。わたし はその時6才でした。宣教師であった父は、日本にくる前、中国の雲南(ユンナン)省の昆明 (クンミン)で働いていたのですが、戦争と中国の革命政権による迫害を逃れるために 日本にやって来たのです。もちろんこの背後には神の導きがありました。


2007年の2月で日本に来て55年いっぱいになりましたが、子供の時 から京都で育てられたわたしは時々自分がフィンラド人である事も忘れてしまう事がある のです。


数年前にある人は私に「ヘイモネンさんは小さい時からアーメンで すか?」と聞かれました。一方ではこの問いに「はい」と答える事が出来る のですが、深く考えるなら「いいえ」と答えた方が妥当だと思います。なぜなら クリスチャンになる事や信仰に入る事は親から遺伝したり環境によって定まって来たりする ような事ではないからです。 「親は親、私は私」と言うふうな考えでわたしは青春時代を京都で すごしました。教会よりも興味があったのは快楽の世界でした。そのころのある日 、河原町で友達にたばこをたかっていたとき彼は「おまえのお父さんはなにをしたはん や?」と聞きました。それに私は「宣教師や」と答えました。すると友達はわらって「おま えは不良外人や!」と言いました。そうであったかもしれません。なぜなら河原町からふ たすじ西に入った2ー3分のところ、新京極六角では、父は福音の家と言う伝道所で 路傍伝道をノンストップでやっていたのです。友達にあのように言われると、正直なところ、心 の深いところではいたみを感じたのです。しかしそれを見せるわけには行きませんで した。かえって自分の心のむなしさをよからぬロックや歌謡曲や映画でまぎらわし ていたのです。「十四、十五、十六と、わたしの人生暗かった」と言うふうな毎日で した。


この中で、神様は色々な方法で放蕩息子のわたしに語ってみもと へ引き寄せようとしておられたのです。当時¥100で三本立ての映画が見られたので、 ある日、映画館のいすに腰をうずめていたとき、急に大きな地震が起こり、私は死の 恐怖にとらわれ、ここで死ねば地獄行きだと思いました。「神様、たすけて下さい。こ こから出られたら悔い改めます。」と祈りました。しかし外へ出てたすかったとわかる と、心がまた神にたいしてかたくなになりました。このような映画館での地震の 経験は二回ありましたが、いつも危機をまぬかれたあとは神様の事をわすれてしまいました。


しかしある日、暗黒に光がさしたのです。それも映画館で起こった 事でした。神の聖い御霊様が「神に帰れ、いま帰れ!」と私の心にやさしくささやいたの です。これは私にとってラストチャンスかもしれないと感じて、そこから急いで立ち上 がって家に帰りました。家では父母に祈ってもらって、わたしは罪を告白し、イ エスキリストを信じて、イェス様を個人的な救い主として受け入れたのです。


ある昔の牧師は、プロテスタント運動の父、マルチン・ルターの言葉 を引用して、神様が与えて下さる救いについて次 のように言われました:星の輝く所に空あり、花のさく所に夏あり、「罪のゆるしのある 所に は命と幸がある」。私もこれを経験しました。今は救いの確信、天国へ行ける確信が与 えられているから、もう死の恐怖をいだいてあゆむ必要はないのです。人間は霊的な 存在ですから、この世の富、名誉、知識、快楽、宗教、死んだ神々や偶像では満足も救いも 見いだすことは出来ないのです。天地万物の創造者なる唯一のまことの神とそのひとり子 なる主イェスキリストをを信じる以外には道はないのです。あなたの心にはイェスキリスト の形の空白があるのです。他のものでそれをうめようと思ってもだめです。しかしイェス キリストによってそのむなしい空白はぴたっと満たされるのです。どうぞ信じてためし て下さい。そうすればきっとわかるのです。


聖書に次のように書いてあります「。 だれでもキリストのうちにある なら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新し くなりました。」(2コリント5:17)


私が自分の罪深さと神の存在を悟った背後には母の祈りがありま した。彼女は毎日家の庭の奥にあった古い倉の中にはいって、ひそかにわたしの救いの ために長時間祈っていたのです。神はその祈りを聞いて下さったのです。祈りには力が あります。私は母の祈りによって救われたのです。


Lasse Heimonen

ヘイモネン・ラッセ


中国から母国に帰って、
日本にくる前に、1951年フィンランドの
クオピオにて取った
ヘイモネン一家の写真です。
ここには、 中国の服を着ている
父のラウリ、母のアンナリザ、
そして姉のエバと私が出ています。